――――なんでこんなとこにいるんだろうか、オレは。
「やっぱり秋は紅葉に温泉、露天風呂だよなあ。 あ〜っ、サイコー!!」
「……良かったな…」
時は十一月、所は東北の名湯としてそれなりに名を知られた温泉の、中でも老舗旅館として伝統と格式と結構な宿泊料金で名高い有名旅館の絶景露天風呂。晩秋の湯煙旅情に浸り切って、その露天風呂の中で大きく足を投げ出して幸せそうに紅葉を眺め回している馨を横目で見ながら、靜はふと異世界に紛れ込んでしまったような離人感に襲われた。
なんで、オレはこんな、さして入りたくもない露天風呂に入って、大して見たくもない紅葉なんて見てんだろ。
こんなことしてる場合じゃないのに。
「あ、靜、サル! ほらあそこ猿いる、すげーっ」
何で猿ごときでそんなに盛り上がれるんだろうか、初めて見るわけでもないだろうに――。軽い溜息をついて、自身の限界を察した靜は早々に湯から上がることにした。もともと湯船に長く浸かることの出来ぬ体質である。
「え、靜、もうあがっちゃうのかよ?」
立ち上がった靜を見上げて、残念そうに馨が呟く。
「お前は気が済むまで浸かってろ」
「一人じゃつまんねー」
「猿がいるだろ」
振り返りもせずに言葉を掛けながら、靜の頭の中はもう学会の発表論文のことで一杯になっていた。そう、露天風呂に浸かってのんびり紅葉を眺めている場合じゃない。目前に迫った秋の学会の準備で、ただでさえテンパってるのに、何でオレはこんなところにいるんだよ。
答えは単純明快、馨に引っ張って来られたからである。
「しょうがないだろ、カラオケでくじ引いたら特等が当たっちゃったんだから。本当は二等の食事券狙ってたんだよ」
靜の部屋のベッドに腰掛けて、宿泊券の入った封筒をひらひらと振りながら、しかしそれでもどこか得意げな口調で馨は言った。そんな馨に一瞥をくれると、靜はまたパソコンの液晶画面に目を戻した。
「ふつーに行こうと思ったら馬鹿高い宿泊料金取られんだぜ? まして紅葉の時期なんて割増し料金だし、予約取るのもひと苦労って話――」
「足代は自前だろ」
「そりゃそうだけどさ、その価値はあるって絶対! 忙しいのは分かってるけどさ、オレらまだ一緒に旅行とか行ったこと無いだろ?」
その通りであった。付き合って一年以上経つが、夏は暑いから嫌、冬は寒いから嫌、GWは混むから嫌だ、そもそも旅行ってもの自体が面倒臭いから嫌だ――と取り付く島も無いような理屈をこねて、今までその手の誘いをにべもなく断ってきた靜である。靜の気質を知り尽くしている馨は、『この天下無敵の出不精がっ』と呆れながらも、無理にとは言ってこなかった。――が、今回はミョーに食い下がってくる。
「な、気分転換に行こうぜ? 露天風呂に紅葉、絶景だって。食事もさ、温泉通の人のサイト見たらすっごく旨いって書いてあったし――」
「行かない。んなヒマねー」
「――じゃ、この券どうしろっての」
「一人で楽しんでこいよ、オレはいいから」
「折角ペア招待券なのに? ――……じゃ、誰か別の奴誘おうかなー……」
「そうすれば」
「あーっっもう、ほんっと可愛くねえ野郎だなっ!」
事も無げに受け流した靜の横顔をむっとむくれて見つめた馨はしかし、気付いていなかった――『別の奴誘おうかな』と馨が言ったその瞬間、靜の眉間にぴしっと三本皺が寄ったのを。
「五月蝿い。気が散る、わめくんなら出てけ」
「靜〜…」
はああと腹の底から深い溜息を一つ吐いて、それから馨は手の中の封筒を見つめて押し黙ってしまった。しばし訪れた沈黙に、諦めてくれたのかな、あー良かった、でもちょっと言い過ぎたかも、…いやかなり言い過ぎたかも――と靜が安堵と自省をめまぐるしく展開していた、その時。不意に馨の腕が伸びてきて、靜の腕を取った。愕いて振り向くと、何だかやけに不安げな瞳をした馨の表情がそこにあった。
「――最近また痩せただろ、靜」
靜の細い腕に眼を落とし、ぽつりと呟く。その声音は、どこか切なげにも聞こえた。
「お前、真面目なのは凄くいいことだし、オレ、お前のそういうとこも好きだけど。研究にハマると、てきめんに食欲落ちるんだもんな。ただでさえ、食細いのに。いつか倒れるんじゃないかって、正直見ててはらはらする」
「……」
「干渉したくはないけど……なんて言えば良いのかなあ。研究にハマっちゃうと、お前、自分のこと忘れるっていうか、全然構わなくなるだろ。だから、見てるオレは、お前のことを忘れないオレは、それが嫌なんだよ。心配、なんだよ」
「……勝手に」
「うん、オレが勝手に心配してるんだけど。ま、ぶっちゃけ本音を言えば、オレのことも忘れてるのが嫌っていうのもあるし。――だからさ、二日間、研究のこと忘れてくれよ。忘れて、綺麗な景色見て、ゆっくり温泉浸かって、たっぷり美味いもの喰って、そんでオレのこと安心させて。お前、なんだかんだ言って二日間取るくらいの余裕はあるだろ?」
余裕なんてものはあるものじゃなく作るものであるから、そりゃあ何とかしようと思えば何とかなるのだが。しかし、それで旅行に出掛けたところで、学会のことが常に脳裡にある状態では心底楽しむことなんて出来やしない。大体がそもそも旅行というものが好きじゃないし、温泉も好きじゃない(他人と一つ風呂に入るのが嫌)し、紅葉なんて近所の公園で充分だし、美味いものっても味音痴だし――。
「靜。――――……なあ?」
くそ。さっきの沈黙は諦めたどころか、口説き文句を考えていたに違いない。
そう分かっていても、縋るような切なげな眼で上目遣いに覗き込まれて、艶のある低音で囁かれて、その上――優しいキスなんかされてしまった日には――――。
「ああもう、分かったよ行きゃあいいんだろ行きゃあっっ!」
――――つまりそんな訳で、気付くとはるばる東北の名湯・老舗旅館なんていう未知の場所に来ている靜なのであった。
「あ、何で資料なんか持ってきてんだよっ靜! 忘れるって約束だっただろーがっ」
部屋の襖を開けた馨は、煙草を片手に布団の上に寝そべって文献を読んでいる靜を見つけると、開口一番不満そうな声を上げた。靜は、別に慌てる風もなく馨を見遣ると、煙草を咥えたままゆっくり文献を閉じた。
「だって、お前待ってる間することねーもん」
夕食後、腹ごなしにもう一回風呂に入ってこようという馨の誘いを断って、部屋に一人残った靜は、こっそり荷物に忍ばせた文献を引っ張り出して読み出したのだ。途中、旅館の仲居が布団を敷きに来た後は、布団に転がって寝煙草をふかしながら読み耽っていた。温泉も紅葉も昼間のうちに腹いっぱい堪能してしまったし、夕食も喰ってしまったら、靜にはもうやることなんかない。
「景色見りゃいいだろ、ほら――ライトアップされて綺麗じゃん。露天風呂の方も石灯籠に灯が入っててさ、すっげえ綺麗だったよ」
馨は庭園へ続く障子を開けて外を眺め、嬉しそうに眼を細めた。腕組みし、柱に背を凭れて庭を眺める馨の浴衣姿を、靜は見るともなくぼんやりと眺めて、こいつは和服がサマになるなあ――と感心した。
細くて腰の位置が高い靜には、着物は全然似合わない。馨はしっかりと筋肉がついて肩幅も有り、腰の位置も日本人の標準だから、着物を着た時の躯のラインが惚れ惚れするほど格好良い。時代劇の主役を張れるほどの姿の良さだ――もしかして髷も似合うかも。
見つめていると、視線を感じたのか、ふと馨が振り向いて靜と視線を合わせた。花が綻ぶような微笑を浮かべて、「何?」と呟く。靜は魅入られたように馨から眼を離せないまま、素直に答えた。
「――――お前、着物似合うなあ」
「そう? お前のその姿も、かなりそそるけど」
言われて、慌てて煙草を揉み消し前を合わせる。ものすごく適当に着ていた靜の浴衣は、寝転がっている間に乱れて前がだらしなく開き、かなり色っぽい格好になっていた。馨はそんな靜を楽しそうに眺めながら、「こっちへ来いよ」と手招きした。靜は、帯を締め直しながら大人しく馨の傍に行った。
「帯は腹で締めんじゃないよ、靜。男は腰で締めんだって――こう」
言いながら、靜の帯と浴衣の間に親指を差し込んでぐっと位置を下げる。ふーんと靜が感心していると、馨の両手はそのまま靜の腰を引き寄せ、靜を懐に抱き入れた。抱かれるまま馨の肩に顔を埋めると、浴衣越しにふわりと石鹸の匂いが鼻腔を擽った――。
「夕飯、あんま口に合わなかった?」
気遣わしげな馨の声が耳元で囁かれる。夕食は地元の名産を取り入れたなかなか豪勢な準懐石風で、勿論味だって申し分なかった。だが、胃が小さくなっている靜には量が多すぎた。あまり箸が進まない靜の膳を「勿体無いなあ」と言いながら浚ってくれたのは馨だ。
「いや――地酒も美味かったし。……うん、やっぱ北は酒が美味いよな」
「お前、ほんっと酒豪だなあ」
笑いながら、靜の背を優しく撫でる。確かに料理も酒も美味かったけれど――でも、オレはお前の作ってくれるメシが一番美味いと思えるよ、馨。馨の躯に身を預けて、靜は心の中だけでそう呟いた。
闇が降りた庭園を眺める。自然の風情をそのままに生かそうとした配慮の感じられる庭園は、雅趣に溢れていて幽玄を感じさせた。来る前に車の中で、わざわざ京都から職人を呼び寄せて造園したんだって――と馨が話していたのを思い出す。
燃えるような紅葉が柔らかな照明を照り返して、暗闇の中鮮やかな朱を彩って浮かび上がり、夜空を焦がす。光源は巧妙に隠されていて、どこからその光が来ているのかは分からなかった。籐の垣の向こうの池に映る光は、夜の底で儚げに煌めいていた。侘しげな虫の声がいくつも重なり合い、闇を縫ってしめやかに響き渡る――。
「……」
幻想的な光景だった。星の瞬く夜空の下、枝を伸ばした紅葉は、手を伸ばせば触れそうだった。その根元に植えられているのは、花を疾うに落としてしまった萩だろうか。鈴を転がすような虫の音は降り注ぐ驟雨のようで、どこか遠くで静かな水音が聞こえた。
――――ここは、何処なんだろう。どうして、自分は今ここに居るんだろう。
昼間にも自分を襲った、理由のわからぬ違和感がまた靜を襲った。それは、異郷の地で感じるある種の感傷とは何かが違った。感傷というほど穏やかなものではない。もっと、――逃げ出したくなるような、焦燥にも似た、――――恐怖。
間近に迫った学会、発表論文の所為? ――いいや、違う。そんなものは表層的なものに過ぎない。
だって。今、自分を優しく包み込む、馨の温もりにすら――自分は――――……。
靜は、やんわりと馨の胸を押して馨の腕から抜け出た。「靜?」と訝しげな馨の声を受けて、「寒くなった」と振り向きもせず呟く。そのまま、布団まで戻り座り込んだ靜の背後で、静かに障子が閉められる音がした。
こんな気持ちになる自分が嫌だった――どうして、こんな気持ちになってしまうのかも分からなかったから、余計に。馨の傍で、馨と二人で、美しい景色を眺める。幸福としか言いようの無いことだ――なのに、何故。馨の気配が自分に近寄ってくるのを感じ、そして馨の体温を間近に感じた。次の瞬間には、背後から馨に抱き竦められていた。
今日はやっぱり、するのかな――。首筋に唇を押し当てられ、靜はそりゃそうだよなとあっさり覚悟した。この一ヶ月ほど、馨とはベッドを共にしていない。特に靜が何かを言った訳ではないのだが、論文にかかりきりな靜の体を慮ってくれたのだろう。もともとあまりセックスが好きではない靜にはありがたかったが、反面、馨には申し訳ない気がしていたのも事実だ。この二日間は馨にくれてやったのだ、今日はもう、馨の気の済むようにさせてやろう――。
「……ん」
浴衣を肌蹴るように、馨の唇が首筋から肩口まで降りてくる。靜が、眼を閉じて馨の熱だけに意識を傾けようとした、その時。
「まだ、逃げたい?」
押し殺すような馨の呟きが、靜を凍りつかせた。一瞬息が止まり、眼を大きく見開く。
馨は靜の肩口に顔を埋めたまま、腕を腰に回し、ゆっくりと靜の帯を解いていく。靜は――指先一つ動かせぬまま、視線すらも動かせずに、ただ肩に触れる馨の唇を感じていた。鼓動が、どくどくと痛いほどに鼓膜を打つ――。
「たまに、お前が消えるように居なくなって、二度とオレのところに帰ってこないって、そんな――――夢、を見る…」
“夢を見る”。その言葉が、靜の心を抉った。鬩ぎ合うような熱い何かが、堰を切ったように靜の胸底から込み上げて来た。
“気がする”――とは、言わない。それが、馨の優しさだった。どうして、馨は、そうなのだろう。傷を負っても、哀しみの最中にも、優しさを忘れずに居られるのだろう。傷を負わせたその人間にさえ。
震える唇を噛み締めた。振り向いて馨の顔を見る勇気など無かったし、今の自分の表情を馨に見られる事も怖かった。思えば、いつもそうだった。馨の傍にいることに耐え難くなったとき、逃げ出してしまいたくなった時。靜はいつも、そんな自分を馨に見られることを恐れて、馨から顔を背けていた。その時、馨がどんな顔で自分を見つめているのか――一度も見たことが無かった。
馨に自分のそんな想いが伝わっていないなんて、どうして信じていられたのだろう? それは、もう一度振り向いた時、馨が何一つ変わらない笑顔で靜を見ていたからだ。
馨は、知っていた――分かっていた。考えれば、当然のことだった。靜以上に靜を見つめている馨が、気付かないはずなんかなかった。分かっていて、それでも変わらずに微笑んでいたのだ。
「靜――――何処にも行くなよ。……オレの、傍に居ろよ――」
祈りのように呟きながら、馨の唇は靜の白くしなやかな背を降りていく。長い指が、滑らかな動きで靜の躯を愛撫し、浴衣を肌蹴ていく。馨の唇が触れた箇所が、指が触れた箇所が、熱を持って痺れていく。
ああ、いっそ――――このまま馨に触れられた箇所全てが麻痺して、自分のものではなく馨のものになればいいのに。
「……あっ…ぅ、あ――……ぁ……」
乾いた喉から漏れ出る声が、嗚咽に聞こえなければいい。抑えようとしても溢れ出る熱い涙は、馨に愛されている快感が生み出すものだと信じたい。胸を塞ぎ、この身全てを熱く侵す想いは、ただ馨への
「あ、ああぁっ…あ、はぁっ、け…い――……っ」
馨の指と唇は、柔らかく触れる愛撫を繰り返しながら、次第に靜の中心へと近づいていく。馨の愛撫に身を任せているうちに、自然靜の上体は布団にうつ伏せになり、いつしか浴衣は滑り落ちて一糸纏わぬ姿となっていた。
眼を閉じ耳を澄まし、意識を圧倒する熱の中で、靜はただ馨の愛情を感じ取ることだけを考えた。馨のどんな微かな愛撫も受け止め、一滴でも零れ落としてしまいたくはなかった。――それで、今までの罪滅ぼしになるわけではないとわかっていても。
「ん、ぁあっ! ……」
馨の手が白い双丘を優しく撫で、吐息が谷間の蕾に触れる。それだけで靜は達してしまいそうなほどに感じた。久々の愛戯はこの上ない官能となって、研ぎ澄まされた靜の肢体を熱く狂わせ、蕩かせていった。今にもくず折れそうにびくびくと揺れる細腰は馨の力強い手に搦め取られ、そして濡れた唇が熱の籠った蕾を捕らえた。そのまま舌でちろちろと蕾を舐られ、気を失いそうなほどの快感の波が靜の躯を攫って行く。靜は咄嗟に指を噛んで声を抑えたが、溢れ出る涙は抑えようも無かった。
「あああっ……、だ、…め、馨っ……ぃ、イくっ…、イっちまう――っぁあ……」
自分だけ先に達してしまうのは嫌だった。昇り詰めるのを限界で堪えて、漸くそれだけ言うと、馨の舌が離れた。はあっと一つ大きく息を吐く間も無く、いきなり躯を反転させられ、馨の手が靜の腿をつと撫でるように押し広げると――。
「は、ああああっ…!」
抵抗をする間も何も無かった。愛液に濡れて張り詰めた分身の頭頂を口に含まれ、舌で軽く弄られたそれだけで、靜はすぐに達してしまった。馨の口中に白濁を迸らせる――最後の一滴を吐き出した後に、馨の舌が優しく鈴口を舐め拭うのを感じた。
「――――……、靜……」
馨の低い囁きが頭上から降りかかる。だが、固く眼を閉じた上に、更に両腕で眼を覆っている靜には、馨の表情は見えなかった。――怖くて、眼を開くことが、馨の顔を見ることが出来なかった。
もしも馨が、今まで自分が一度も見たことが無い表情をしていたら、一体自分はどうすれば良いのだろう――――?
「……馨、……
考えるよりも先に言葉が出ていた。一瞬、馨が息を呑む気配が伝わってきた。
「挿入れて、くれ――……馨……」
馨が靜の言葉に愕くのも無理はなかった。付き合い始めた頃は、馨の分身を受け入れていた。だが、靜が挿入を苦痛に感じていることに気付いてからは、馨は無理に挿入しようとはしてこなかった。それからは、互いに手か口で達して、それでどちらも満足していた。
沈黙は随分長い間のようにも感じられたが、恐らく数秒のことだったのだろう。微かな衣擦れの音が聞こえ、馨の手が自分の片膝を持ち上げ、肩の上に載せるのが分かった。そして、馨の指が唾液を自分の秘孔に塗る濡れた感触――。
「んんっ…っん」
一度先端をあてがわれた後、ゆっくりと馨が靜の中へ入ってきた。頭頂が入ったそれだけで、久々の痛みとどうしても慣れない異物感に、靜は息を荒げた。苦しげな靜の呼吸の間合いを見計らいながら、馨は腰を前後に小刻みに揺らし、少しずつ靜の中へ分身を埋めていった。
「靜――……痛く、ない?」
痛みが全く無いと言えば嘘になる。だが、そんなことはどうでもよかった。自分が馨の心につけた傷を思えば、どれ程の痛みだというのだろう。
靜はただ、自分の全てで馨を受け入れたかった。自分の全てを馨のものにして欲しかった。髪の毛一本から、零れ落ちる涙の一滴まで、何一つ――何一つ、自分のものでなんかなくていい。
馨のものになれば、馨と一つになれれば。
馨の傍に居ることに、馨の優しさに、怯えて逃げたくなることも無いのに。
馨の哀しみに気付いてやれない自分の身勝手さに、居たたまれなくなることも――無いのに。
靜は、顔を隠したままただ頷いた。その時突然、靜の両腕を馨が力強い腕で解き、荒々しく唇を奪った。だが、強引だったのは最初だけで、すぐに口付けは愛情深いものに変わった。吐息を重ね合い、唾液を絡め合うキスは甘く痺れるようで、靜は挿入の痛みが和らぐのを感じた。
「靜――好きだよ……」
靜の唇を啄みながら、馨は幾度もそう囁いた。眼を開き、馨の眼を見て、「オレも好きだよ」と言おうと――何度も思った。そう思っているのに、靜はどうしてもそれが出来なくて、ただ唇を重ねながら馨の首に縋りつくように抱きついていた。
「動いても大丈夫?」
訊いた後、靜が頷くのを確認してから、馨は注意深く腰を送り込み始めた。
「んっ――ふ、…あ…ぅっ――」
「――ヤバい、靜……オレも、もう――もたねえっ……」
内奥で擦られる違和感に長く耐える必要は無かった。馨も、律動を始めてすぐに愛欲で靜の奥深くを濡らした。
だが、馨が達した後も靜は馨を放さなかった。放さずに、眼を閉じたまま馨の唇に唇を重ねた。呼吸を奪うように深く口づけると、馨はそれに応えてきた。
もっともっと、自分を失うほどに、どこまでも侵して欲しかった。ひとつのものだと錯覚するほど、繋がり続けて居たかった。
――――例えそれが、異郷の地が見せた一夜の美しい幻覚に過ぎないのだとしても。
言葉に出来ないその想いの代わりに、一筋の涙が靜の眦から零れ落ち、靜は馨を抱き締める腕に力を込めた。恐らく、馨はそれで靜の想いを察した。
それから朝が来るまで、馨は一度も靜を放さず、愛し続けてくれた。
障子越しの秋の涼やかな朝の光が、靜の意識を眠りから引き戻した。
自分の目に入る見慣れない光景に、一瞬ここは何処だろうかと考えた。眼を幾度か瞬かせて、それから自分が旅の褥にあることを思い出した。
すぐ眼の前にある馨の横顔を見ると、靜に腕枕をしている馨はまだ、安らかな寝息を立てていた。起こさないよう細心の注意を払いつつ、馨の腕の中からそっと抜け出し、脱ぎ捨てられた浴衣を羽織って障子を細く引き開けた。
朝靄の中の庭園は、昨夜の幽玄の翳は消え、代わりに清々しい秋の空気に曝されていた。朝露は弱日を反射して宝石を鏤めたようにきらめき、露を置いた萩がさながら数珠のようだった。
ふと足元に目を遣ると、濡れた縁側に紅い葉が幾枚か落ちていた。靜は屈んで障子の間から手を伸ばし、赤子の手のようなその葉を拾い上げた。
暫くその葉をぼんやりと見つめていた。それから、浴衣で丁寧に朝露を拭き取って、枕元の文献に挟んだ。
馨の寝顔を覗き込む。満ち足りた、穏やかな顔をしていた。数え切れないほど見ているはずなのに、どこか見知らぬ男を見ているような気もした。だが、それで良いのかもしれない。
靜は、もう一度馨の胸に顔を寄せた。頬に触れる素肌の温もりと心地よく伝わってくる鼓動は、確かな存在感をもって靜の心を満たしていった。
そう――――ただ、信じればいいのだ。
ここに、自分の居場所があるのだと。ここ以外の何処にもないのだと。
怯える必要も、逃げ出す必要も、もう何処にも無いのだと――――。
ふと、考えた。人は何のために旅をするのか、もしかしてそれは、自分の居るべき場所を見つけるためなのではないだろうか。わざわざ金と労力をかけて旅行をしたがる人間を、今までの靜はどうしても理解できなかった。だが、もしもそのためだというのなら、それは分かるような気がした。
ここが何処か。どうして、ここに居るのか。――――そんなことを考える必要も、もう、何処にも無いのかもしれない。
何処でもいい。何処へ行こうと、構わない。
何処であっても、馨の傍に居ることに変わりがないのなら――――。
馨の腕が動き、何かを探すように宙を泳いだ後、靜を捕らえた。
靜は、馨にキスした。唇を離すと、子供みたいな無邪気な笑顔で靜を見ている馨が居た。昨夜の哀しみの翳はもう何処にも見られなかった。
「おはよう。もっかい」
言われて、もう一度唇を重ねる。軽く触れて離そうと思っていた唇は、馨に捕らえられて思いがけず深い口付けになった。
ひとつにはなれない躯。それでも、離れられない。
だから、傍に居る。
――――ならば、もう、眼を背けることはやめよう。
「朝風呂、いこっか」
馨の言葉に素直に「ああ」と頷いて、靜は微かに微笑んだ。