密やかな項(うなじ)/鬼(?)×青年(?)/和風ファンタジー

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鬼ヶ沢に伝わる伝説。


昔、この池のほとりに鬼がすんでいた。山奥にただ一人、崩れかけた山家に居を構え、勝手気儘な暮らしをしていた。
鬼は粗野で横暴で、度々鶏や野菜を盗んだり狼藉を働いたりしたので、里の者には恐れられ、かつ忌み嫌われていた。
しかし鬼はかえってそれで気をよくして、ますます増長するばかりだった。
初秋のある日の夕暮れ。鬼が狩りから戻ってくると、池から水音が聞こえてきた。
水鳥とも山の獣の気配とも違う。鬼は、これは人に違いないと思った。
おそらく何も知らぬ旅人が水浴びでもしているのだろう。ならば脅かして金品を奪い上げてやれと考え、木の陰に身を隠してこっそりと近づいた。
果たして、鬼の予想は当たっていた。一人の人間が池の端に身を屈め、手で水を掬い飲んでいるところだった。
鬼からはその者の背しか見えなかった。無地の簡素な着物に身を包み、長い黒髪を流れるままに下した、男とも女ともつかぬ後姿。その背格好から、まだ年若い人間だという事はわかった。
茜色に暮れ泥んだ風景。夕日の照り返しがその輪郭を縁取り、しなやかな肢体を浮き彫りにしていた。
鬼は当初の目的も忘れ、魅入られたようにその後姿を見詰めていた。若者は鬼に気付かない。手で髪をまとめ耳の後ろで束ねると、隠れていた項が露になった。そのなめらかな白い肌は雪のように白く、黒い髪と見事な対比を為していた。鬼は、その艶めかしい項に釘付けになった。
髪を結い終わると、若者は手荷物を拾い上げ里の方へ向かって歩き出した。鬼はしばらくぼうっと立ち尽くしていたが、はっと我に帰りあとを追った。しかしその姿はもう何処にも、暮れ泥む山の景色に溶け込んでしまったかのように消えていた。最後まで、その者の顔を見ることはなかった。
鬼はその夜、里の村長(むらおさ)の家に無理矢理押しかけた。そして、夕暮れに池の畔で水を飲んでいた者を自分に差し出すように要求した。そうしなければ村に対してこれまで以上の乱暴狼藉を働く、と。
村長はそんな若者に心当たりはないと首を振った。しかし鬼の剣幕に気圧され、明日の夜までにその者を探し出して鬼に差し出すことを約束した。鬼は満足して山に戻った。

翌日の夜。
鬼の家の戸をとんとんと叩く者があった。鬼が勇んで出てみると、頭から着物を被り顔を隠した人間がそこにいた。鬼には、それが昨日の若者だとわかった。
『お前が――』
嬉しさに手を伸ばすと、その者はついと身をかわし小さな声で問うた。
『一体私に何の御用でしょう――』
その声で若者が男だと分かった。だが鬼には性別などどうでもよかった。
『俺はお前が欲しいだけだ。これからお前は俺のものになるのだ。そうしなければ、お前の村の畑をすべて台無しにする』
『……わかりました。しかし、私にも条件があります。私は年老いた母と二人暮しです。昼の間は村で母の世話をさせて下さい。また、私は決してあなたに私の素顔を見せません。この二つの条件をのんで下さるのなら、毎夜ここに通い、あなたの夜伽でも何でもいたします』
鬼は夜しか彼を手に入れられないこと、また彼の顔を見れないことは残念だと思ったが、一刻も早く彼に触れたかったので二つ返事で承諾した。
『お前の名は』
『お好きな名で』
『では、月白(つきしろ)だ』
月白は頷き、鬼に引かれるまま家に入った。月白は鬼に背を向けて褥の上に座り、被り物を脱いだ。顔には張り子の面をつけていた。面には何も描かれてなく、眼の部分に小さな穴が二つ開いているだけだった。耳の後ろで髪を一つに束ね、白い項がそこだけ月明かりに映えて闇の中に浮かび上がっていた。
鬼は心のうちの歓喜を抑えつつ、背後から月白の項にむしゃぶりついた。月白は一瞬だけ身を竦めた。鬼は月白の着物を剥ぎ取り、その痩躯の隅々まで蹂躙した。月白は声一つ上げなかった。
そうして、二人の夜が始まった。


ひと月が瞬く間に過ぎた。
月白は約束どおり、毎晩月が森の上に出てくる頃に鬼の棲家を訪れた。そして鬼と肌を合わせ、躯を重ね、朝までの時を共に過ごした。しかし決してその面を取ることは無く、鬼には大概背を向けていた。鬼は自然、その項に語りかけることになる。
『お前は何歳だ』
『……』
『お前の本当の名はなんだ』
『……』
『答えろ。答えぬと村を襲うぞ』
『それなら、私は母を殺して死にます』
『わからぬ。命を捨てる覚悟があるなら、俺に辱められる前に死ねばよかったはずだ。お前は何を考えている』
『私はあなたのものです。あなたのことを考えています』
鬼には月白の心がわからなかった。月白の躯の頚から下は全て鬼のものだった。その雪のような肌の全て、濡れた襞の奥まで何もかも全てを手に入れた。月白に飽くことはなく、鬼は一晩に幾度も月白を求めた。月白は鬼の獰猛な情欲の全てを受け入れ、拒まなかった。
『……んっ……はぁ――……』
鬼に背後から抱き竦められ、滾る凶器で下から幾度も突き上げられる。闇のしじまに満ちる、濃密な情事の匂いと音。
月白の蕾はすぐに鬼に馴染んだ。繋がればその温もりは自分を迎え入れてくれた。月白の分身は蜜を滴らせ、快楽の証を迸らせた。月白が自分との行為を厭うていないことはわかった。
しかし、鬼には月白の心が読めない。躯を貪れば貪るほど、夜を重ねれば重ねるほど。
眼の前の密やかな項に口づける。闇の中、しらじらと浮かび上がる優美な白肌。その曲線のすぐ向こうに月白の顔がある。
純白の仮面に隠された、月白の心がある――。

徐々に、鬼は月白を貪らなくなった。相変わらず褥をともにしたが、初めの頃の猛々しさは影を潜め、月白を抱く腕に優しさが込められるようになった。それは鬼自身ですら気付かぬうちに、だが確かに鬼は変わっていった。
月白は変わらなかった。変わらず、毎夜鬼のもとへ通ってきた。
鬼は何度か月白が寝ている隙に面を取ろうと試みた。しかし全て、月白に感付かれて失敗に終わった。月白は自分の傍にいる間、全く眠っていないのではないだろうか? ――やがて、そんな疑問が鬼に生じた。
考えてみれば、月白は謎に満ちていた。その肌は白く、躯には傷一つなかった。日に焼け、手を肉刺(まめ)だらけにした村人とは明らかに違う。毎日太陽の下で汗水流して働いている人間には到底見えなかった。昼に母の世話をして、夜に鬼の夜伽を勤め、そんな生活をひと月以上も続けているのに、疲労の色すら見えないのもおかしな話だった。
月白は本当に村の人間なのだろうか? 暁に家路につく月白のあとをつけてみたこともあった。だが、いつも朝靄の中に月白の姿を見失って終わった。まるで靄の中に溶け込むように、月白の姿はかき失せてしまうのだ。
昼間に村へ行き月白を捜すということも考えた。しかしそれは先に月白に釘をさされた。
『私があなたのものになったのは、村をあなたから守るためです――なのにあなたが村へ姿を現したら、私はみなへ面目がたちません。母とともに命を絶ちます』
月白にそう言われると、鬼は何も出来なくなった。鬼は月白を喪いたくなかった。
『なあ、月白。いつになったら、お前はその面を外してくれるのだ?』
『……』
『月白。いつになったら、昼もずっと傍にいてくれるのだ?』
『……わかりません』
ただ一つの問いを除いて、月白から明確な答えが返ってくることはなかった。だから、虚しい問答の最後に鬼は必ずこう訊いた。
『月白。お前は俺のものだよな?』
『はい』


ふた月が過ぎた。鬼は、月白に語りかけることが多くなった。
『今朝、谷向こうへ山葡萄を集めに行った。そうしたら先客がいた。なんだかわかるか?』
『狐か狸か……それとも、鹿?』
『それが熊だったのだ。あれには驚いた。向こうの山には熊がいるんだな』
『熊も冬篭りの準備をしているのでしょう。秋も深まりましたから。春には小熊と一緒でしょう』
月白は、自分に関する質問以外には答えるということがわかってきた。だから鬼は毎日野山を駆け回り、話題を探した。不思議なことに、月白は嘘は必ず見破った。ありもしないこと、やってもいないことを言っても、答えは返って来なかった。まるでどこかで自分の行動を見ているのではないかとすら思えた。
鬼は、毎日が楽しかった。後で月白に話そうと思うと、花を見るのも雲を見るのも楽しかった。秋が深まり、夜が長くなっていった。鬼の話は尽きることなく、月白は飽くことなくそれを聞いていた。相変わらずその顔は白い面の下に隠れ、月白の顔を見ることは叶わなかったが、それでもいいような気がしてきていた。
『月白。これからもずっと、俺の傍にいてくれ』
『…………。私は、あなたのものです』


そして三月が経った。初雪が降ったその日、月白が鬼に言った。
『冬が来ました。雪が積もれば道が閉ざされ、私はここまで来ることが出来なくなります。――今日が今年の最後です。また春になり雪が解けたら、ここに参ります。どうかそれまで待っていて下さい』
『駄目だ。そんなこと許さない――』
鬼は驚き、腹を立てた。平伏する月白に怒鳴りたてた。
『約束が違う。雪道が辛いのならずっとここにいればいい』
『それでは母が死んでしまいます』
『お前の母など知らぬ。お前は俺のものだ、なのに何故俺から去ろうとする』
鬼は哀しく、腹立たしかった。既に月白がいる夜が当たり前のものになっていた。これからの長い冬を、寒い夜をただ一人で過ごすことはもう出来ない。人の温もりを知ってしまった今となっては、その孤独を想像することすら苦痛だった。
『わかったぞ、お前は俺が厭になったのだな。もう俺の伽は飽いたか、それとも里に女でも出来たか』
『誓ってそのようなことはありません。春になったら必ず戻って参ります』
『お前はいつも口先だけだ。口では自分は俺のものだと言うが、ならば何故俺の言う事を聞かぬ? もう三月も褥をともにしながら、素顔を見せることもしない。お前は本当は俺に何一つ心を開いてはいない、何一つ真実を語ってはいないのだ……!』
月白は震えながら、ただただ平伏していた。それが鬼をさらに追い込んだ。月白は自分を恐れている。想いが通じ合っていると思っていたのは自分だけ、別離を哀しんでいるのは自分だけなのだ。月白は村のためにその身を捧げただけ――何もかもが、一人芝居に過ぎなかったのか。
『もしも俺のことを好いていると言うのなら、その顔を俺に見せろ』
『それは出来ないのです。お願いです、どうか私を信じて下さい』
『五月蝿い! お前が俺の言う事を聞かぬのなら、俺にもお前の言う事を聞く義理などない。お前は俺のものだ、その躯もその顔も俺のものなのだ。もうお前を里には帰さぬ、ずっとここに、俺の傍にいろ……!』
そう叫び、鬼は月白に襲い掛かりその面を奪い取った。月白の素顔が露になった。
最初、鬼はそれが誰だかわからなかった。わかった後も信じられなかった。
月白の顔は。
鬼自身の顔だったのだ。

唖然と見詰める鬼の眼の前で、月白の眼から涙が一筋流れた。窓から差し込む暁の白い光に、その涙が燦(きらめ)く。
『何故、私を信じてくれなかったのです。何故、たったひとこと私を待つと言ってくれなかったのですか。その一言で私は人となり、この先ずっとあなたの傍にいることが許されたのに――』
『お前は――お前は、何者だ――』
『私は毎日あなたを見ていた――あなたがここに棲み始めた時から、ずっと――』
鬼は月白を見つめた。見返す月白の――鬼の顔。
鬼は気付いた。
池の水面に映る顔。見詰めれば見詰め返してきた、寂しげな己の顔――。
『私はこの池の水神です。私はあなたが水に落ちた虫を助けてあげたことも、水面に映る自分を話し相手としていたことも知っていた。だから――だから、私は山神に私を人にして欲しい、あなたの傍に行かせて欲しいと頼んだ……』
月白の眼からは、後から後から涙が溢れた。鬼は動けなかった。
――もしかして、泣いているのは俺なのだろうか――?
『山神は、雪と氷で水面が閉ざされるまでの間に私を信じさせることが出来れば、本物の人にしてくれると言った。それまでは夜だけ、そして私自身の姿を与えることも叶わぬと。今日、あなたが私を待つと言ってくれたら、私は私自身の姿で人になることが出来たはずだった。けれどもう、全てが終わった――永久(とわ)の暇(いとま)を告げねばなりません』
『馬鹿な。俺は――俺は、鬼だ。お前の姿は、顔は俺でも、鬼ではなく人だ。お前が俺の姿だなんて――』
月白が立ち上がると、山家の戸が自然と開いた。朝霧が流れ込み、その靄の中に月白の姿は徐々に透けていく。
『あなたは鬼ではない――あなたはただ、孤独だっただけだ――――』

その言葉を最期に月白の姿は消えた。鬼は表に躍り出た。朝靄に白く煙る池の畔、鬼は半狂乱になり月白の名を呼び続けた。
何処にも月白の姿は無い。叫び疲れ、途方に暮れて水面を見る。
そこに映っていたのは恐ろしい鬼ではなく、涙に濡れ、絶望に打ちひしがれた顔の一人の若者の姿だった。
そして若者は、その刹那に何もかもを悟った。
誰も彼を鬼と呼んだことなどなかったことを。
自分はずっと一人だったことを。
今となっては、里も村も本当にあったのかわからなかった。何もかもが、己の孤独が作り出した幻のような気がした。
この三月のことも、夢だったのではないだろうか? 月白など本当にいたのだろうか?
いや、『月白』はいたのだ。
それは遠い昔に捨てた、彼自身の名。誰にも呼ばれることの無かった名。
あの時名を求められて、たった一つ思い出した名。それが自分の名だということを忘れるほど、彼は孤独だった。
だから、彼は名も無き鬼となることを望んだのだ。

人で居るには、寂しすぎたから――――。


若者は、泣きながら池に手を伸ばした。水面に映った若者も、彼に向かって手を伸ばした。
彼はそのまま池に身を投げた。
池は若者を受け入れ、また静かになった。
そして雪が降り始め、やがて全てを純白に包んだ。


鬼が沢に伝わる伝説。

毎年初雪の朝に、どこからともなく鬼の声が池の畔に響くという。
たった一人、愛しい者の名を呼ぶ、寂しい鬼の哀しい声が――――。

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