華奢な指/下男(29)×若君(24)/大正浪漫的主従+α

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伝えたい想いがあり、言えない言葉がある。
言ってしまえば、必ず後悔する。言わずにいても、きっと後悔する。矛盾と葛藤はやるせなく甘く、苦く。
積み重なる想い。断ち切れない願い。
それは本当は、言葉にすることなど出来ないものなのかもしれない。芳しい香りを、言葉で説明することなど到底出来ぬように。
伽羅(きゃら)、羅国(らこく)。真南蛮(まなばん)、真那伽(まなか)、佐曾羅(さそら)、寸聞多羅(すもたら)。
樹木から滲み出た樹液が、熱せられて薫香を醸し出し、沈香と呼ばれ人の心を捉えるように。
私の心の奥底で。長い歳月をかけて積もり、燻され、甘い薫りを放つ、禁じられた想い――――。


「若君。夜も更けて参りました。そろそろお休みになられたほうがよろしいでしょう」
唐紙の陰から忍び寄る声。灯りの届かぬ薄闇の中、姿を認めることはできないが、気配だけは感じる。日蔭の存在であることを宿命付けられた男は、己の姿を人目に曝すことを嫌う。例え生まれた時から傅(かしず)いている己の主に対してさえも、例外ではなかった。
「……わかっている」
障子に凭れ、ぼんやりと庭を眺めていた。皐月闇。小さな中庭に、手入れの行き届いた躑躅の花が、灯篭の灯りに映えて愛らしい。
この夜が空ければ、――明日になれば、自分の躯は、もう自分一人のものではなくなる。仕方が無いことだ。弱小とはいえ、寛文の頃より続いた流派を途絶えさせる訳には行かない。身売り同然の縁組だとしても、否みようもない。ましてや、向こうから熱烈に望まれたとあっては。
「……躑躅(つつじ)が、美しいな。あの小さめの紅梅色のが、特に」
「霧島躑躅。若は、色味が濃くて小振りの花をお好みですから――」
「お前の手入れした庭をこうして愛でるのも、今夜が最後か」
「お戯れを。お内儀様をお迎えになられましたら、ご夫婦でご覧になればよろしいではありませんか。――お内儀様のお好みの花も植えましょう」
「……いや――このままがいい」
この家には庭師を雇う余裕など無かったが、その必要も無かった。家務から自分の身の回りの世話から、この男はたった一人で何から何まで完璧にこなした。庭と屋敷はいつも綺麗に掃き清められ、季節の花が慎ましやかに咲き、組香の際には抜かりなく座敷が整えられた。数少ない門人の中には、この家に家人がたった一人しかいないことを知らぬ者も多い。この男が限られた時と躯を一体どうやって切り盛りしているのか――自分には、見当もつかない。
「若君。夜風はまだ冷とうございます――お体に障りましょう。明日という日を控えているのですから、ご自重を」
「……なあ。――お前は、女を知っているのか?」
唐突な問いに、微かに空気が動いた。僅かな間の後、変わらぬ口調で答えが帰ってきた。
「はい」
一瞬の、空隙。
「――……そうか。女は、いいものか?」
「私が一度だけ閨を供にしたのは、香坂の御令嬢とは比べようも無き下賤の者ですので――」
「女には違いあるまい。女の体は、良かったか?」
自分でも、声に棘があるのがわかった。予想外の答えが返ってきたことに内心の動揺を隠せなかったのだ。例え娼婦との一度限りのかりそめの交わりにせよ、いつのまにそんな、――自分の知らぬ間に。それを責める理由など、何処にも無いと分かっているけれど。
「答えろ。正直に。嘘は許さぬ」
寡黙なこの男は、己の事を進んで語ろうとはしない。今まではそれでも良かった。この小さな屋敷で二人、香を玩び、穏やかに廻る四季を愛でている間は、言葉など邪魔なものでさえあった。
だが、今は。言葉ではっきりと、この男の本心を知りたいと願っていた。そしてまた、自分の密かな願いを知って欲しい――、とも。
更なる間の後、唐紙の陰から静かな声が答えた。相変わらず、声の主の姿は見えぬままに。
「いいえ。――私には、匂いがきつ過ぎました。女の躯の匂い……強すぎる麝香は、私には馴染めぬもののようです」
「…………」
「……ですが、若。香坂の御嬢様は、芍薬とも牡丹とも譬えられる深窓の姫君。若が不安に思われることは何もございますまい。ご婚礼を目前に控えて、お心が千々に乱れていらっしゃるものと拝察いたしますが――」
「要らぬ心配だ。確かに、私はお前と違って女を知らぬが――」
「若は道を一心に努めてこられたのです。下世話な劣情にお心を乱されることもなく――求道者とは、かくあるべきもの。そのような若君だからこそ、香坂の御令嬢も御心を奪われたのでございましょう」
「……。もういい」
二人だけで過ごす最後の夜に、こんな話題で空気を穢したくはない。話題を振った自分が悪かった――知らねばいいことを、わざわざ蓋を開けて覗き込んでしまったのだ。ひとつ溜息を吐いて、障子を閉め部屋の中に戻った。
簡素な八畳間には、古めかしい行灯の薄明かり。ランタンの方が明るいが、石油と煤の匂いを好まないのと、掃除の手間がかかるために読み書きする時以外は殆ど使わない。柔らかな明かりの底に、綺麗に整えられた床が浮かび上がる。
この部屋で寝起きするのもこれが最後か。子供の頃から慣れ親しんだこの部屋は、明日からは書斎として使うことになり、かつて両親が使っていた座敷が夫婦二人の寝所として整えられている。既に運び込まれた嫁入り道具が鎮座し、自分にはどうにも居心地の悪いあの部屋。それもいずれは、慣れてゆかねばならぬのだろうが。
「――傍へ」
声をかけると、唐紙の後ろの影が動いた。部屋に入る前に一礼し、部屋の中央に伸べられた床の足元でまた一礼。行灯の薄明かりの中へ現れたその姿は、朽葉色の麻の着流しに身を包んだ若者――精悍な顔立ちを、無造作にまとめられた黒髪が縁取っていた。
羽織を脱ぎ枕元の乱れ箱に投げ込んでから、床に胡座となり無言で右手を男の方へと差し出す。男もまた無言でその手を取り、両手で軽く押し戴いた後、ゆっくりと己の顔へと近づけていった。
これは、二人の間でいつしか毎日の習慣となった戯れ――。その日に炊いた最後の木所を、手に残った幽かな残り香から当てるという、遊び。
無論、沈香を直接手で触れることなど無い。床に入る前には必ず湯浴みをして身を清める。残り香など無いに等しく、常人には香りを嗅ぎ取ることなど到底不可能――そう、この自分にさえも。
だが、この男にはそれが出来た。
「……鼈甲飴のような甘さ――濃密で、澄んでいて……」
香炉と同じように、右手の人差し指と親指の間から香りを聞く。閉じられた瞼に、髪が濃い陰を落とす。陰日向無く働く若者の肌と髪は日に焼けて、微かな陽光の匂いが鼻腔を擽った。自分にはないこの若者の健康美は、いつも羨望と賞賛の混じった感情を沸き上がらせた。
「微かな辛み――武士の如き、芳しき香気……」
今更ながら思う。自分が香の道を進み、うら若き宗主として立つことが出来たのは、偏にこの男の存在があったればこそなのだと。
自分が凡庸な才覚の持ち主とは思わないが、それもこの男の天稟の前では霞む。何より、石であった自分をここまで磨き上げ珠としたのはこの男の薫陶の賜物に他ならない。
自分よりもこの男の方が遥かに宗主に相応しいのに――ただ、母の出自の低さだけで、日蔭の身と宿命づけられるとは。
「……羅国=Bお手持ちの"梓弓≠ゥと」
呟いて眼を上げ、互いの視線が絡み合う。返答の代わりの微笑――「お前には、簡単すぎたか」
「皐月の香としては、意外な木所……初夏の景色としては、真南蛮か佐曾羅辺りかと」
「誰かのためではなく、今日の自分のために炊いた香だ。夕刻、一木聞きで愉しんだ。羅国の六歌仙は――」
「業平。香名が梓弓。では、証歌は伊勢物語、二十四節……」
父が逝去した時、自分はまだ数えで十一だった。父を喪った哀しみよりも、正妻の子として生まれ、家を継ぐ重圧に耐え切れずに、ひとり部屋で泣いていた。母は自分を産んだ直後に亡くなり、一人だけいた姉は三つの歳に死んだという。声も無く手の甲に落ちる涙を見つめていた時、誰かの手がその上に重ねられた。――顔を上げると、五つ上の異母兄が静かな瞳で見つめていた。
『お前が、家を継げばいいのに。下女の子だって長子なのだから、お前が宗主になるべきなんだ』
生まれた時から下男として自分の世話をしていた少年が、実は父が下女に手をつけて産ませた腹違いの兄だと知ったのは、物心ついた頃だったろうか。それを知った後でも二人の関係が変わることが無かったのは、他ならぬ兄がそう望んだからだ。
『いいえ。この家の嫡子は若さまお一人――私は、下女の産んだ下男です』
骨ばって大きな兄の両手が、涙で濡れた手を優しく包み込んだ。その温もりに、不安と哀しみは日に曝された雪の如く融けていった。兄は自分の手を取り、唇を寄せて――――。
『何があっても、お守りいたします――若』

あの時。
――――お前は、何故、――――……。

「何故、伊勢物語から? ……恐れながら、婚礼を明日に控えて選ぶ歌としては――」
眼の前には、十三年前と変わらぬ静かな瞳をした男がいた。香を聞き終えて手を引こうとしたのを、軽く握って留める。いつもと違う自分の行為に、男の瞳の色が僅かに変わった。
重ねた手と手の温もり。絡み合い、見詰め合う眼と眼。
蝋燭の芯の焦げる幽かな匂い。
揺れる闇と、沈黙。

何故。
聞きたいのは、自分の方だ。何故。
何故、あの時――お前は、私の指に口付けたのか。その唇で、私の心の奥に生涯消せぬ熾火を燈してしまったのか。
お前にとってそれは、幼い子供へのほんの戯れ、慰めに過ぎなかったろうけれど――。

「何故その歌を選んだか。わからない、か――……」
自嘲気味に呟く。わかっていたことだったが、それでも何処かで期待を捨てきれぬ自分がいたのだ。だが、この期に及んで一体自分は何を期待するというのだろう。もしも自分の想いを伝えられたとしても、それでどうなるものでもないのに。
初めから、許されぬ関係、許されぬ想い。分かりきったこと――だから、何も望まなかった。言葉にすることも、形になることもなくて良いと思っていた。
それなのに。
己の未練に歯噛みし、手を引こうとした、その時。

熱い唇が。
小指を食んだ。

びくりと竦む手を、骨ばった手が逃がすまいと絡め取る。
小指の次は、薬指。中指、人差し指と、夜目にもしらじらと華奢な白い指に、熱で渇いた唇が次々とむしゃぶりつき――その官能に耐え切れず、はぁっと大きく息を吸い込んだ。掌に接吻されて、ぞくりと肌が粟立つ。
――そして、次の瞬間には。どちらからとも無く抱きあい、唇を重ね合っていた。
夜の帳(とばり)に、獣の息遣いと、密やかに響く水音。互いの奥へと求め合い、全てを欲しいとねだる舌は、幾度も絡み合い、融け合い、離れる間を惜しみ――。
「あ――ぁ、ん……ふっ」
自分のものとは思えぬ艶めいた声が溢れ、躯が震える。禁断の枷を引き千切った躯は恥も知らず、四肢の全てを使って男に縋り付き、その引き締まった肉体に己の痩躯を擦り付けた。男も応え、折れんばかりに激しくかき抱き、肌蹴た夜着の裾から覗く白い肌へ熱の籠った手で愛撫を繰り返す。生まれてこの方誰にも触らせたことのない柔らかな秘部の入り口をなぞられ、雷の如き快感が身を貫いた。
どれだけ貪りあっていたのか。透明な蜜を引きながら、絡ませあった舌が解き放たれ――
「……何があっても、貴方を守ると誓ったのに」
男の静かな瞳の奥に、激しい愛欲の焔と、深い哀しみの翳りが同時に見て取れた。長年、静かさの裏に抑え込んできた激情。
その時突然、男が娼婦を買った理由を理解した。
男は、諦めようとしたのだ。そして、どうあっても諦められぬ想いと悟ったのだ――――そう、自分と同じように。

ああ。
あの時からずっと。互いに、同じ想いを抱いて――――。

いつしか、涙が頬を濡らしていた。男の唇が涙を優しく吸い、そして再び唇を重ねた。交じり合う蜜は限りなく甘く、そして、幽かに涙の辛みを秘め。

梓弓。花橘。玉櫛笥。伊勢物語には、叶わぬ想いの歌の何と多いことか。それ故に、自分は子供の頃からこの古典を好んだ。自分の身と重ね、想いを馳せてきたのだ。
けれど、お前も同じ想いを秘めてきてくれたのならば、自分は二度とあの古典を詠むまい。
伝えたい想い。言えない言葉。
だが、語り尽くせぬ言葉も、哀しい歌ももう必要無い。
そこにある甘い香を、二人は確かに聞いたのだから。

男の手が帯の結び目を探り当て、荒々しい手付きでその戒めを解く。単の夜着が肩から滑り落ち、床の上に乱れた紋様を描いた。
互いを隔てるものは最早何一つ無く。
ただ、繋がる想いと躯があるのみ。


今宵。
生涯一度の、恋の夜が始まる――――。

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