背中に笑いを含んだ視線を痛いほど感じる。
「あれ? ……え〜と、ここがこうなって……、…」
 鏡に映った自分の姿を見ながらやっていたのだが、どうにも上手く行かなくて、ぐっと顎を引いて自分の首元を見た。それから拓海は、もう一度雑誌を手に取ってネクタイの結び方を確認しようとした。
「た〜く〜み〜、やってやろうか〜?」
「いい。自分でやらないと覚えられないから」
 さっきから感じる含み笑いの視線の主は、年上の彼氏――昂だ。二年先輩で拓海より先にサラリーマンになった昂は、社会人三年目の春を迎えようとしている。拓海も無事就職先が決まり、この春からは晴れて社会人だ。就職先は中堅のソフトウェア会社――数学科卒の拓海には向いた仕事といえるのだろうか。
 そして拓海は今、内定者の懇親会に行くために慣れないスーツで身支度をしている最中なのである。会社が企画した懇親会なので、一応スーツを着るべきだろうと考えて、たどたどしい手付きでネクタイを結んでいるのであるが――――。
「早くしないと間に合わねーぞ? しかしまあ、お前って本当に不器用だよな〜」
「うるせーっ! ほら見ろ、結べた! これでいいんだろ?」
 振り返って、どーだ! と見せる拓海の襟元に、どれどれと昂が手を伸ばしてきた。
「曲がってる。八十五点」
 ネクタイの歪みを直しながら、昂は拓海の顔から足元まで愉しげにゆっくりと眺め下ろした。
「何だよ、…まだどっかおかしいか?」
「違うよ。そうじゃなくて――拓海もいよいよリーマンかと思うと、ちょっと感慨深くてさ」
「…何、親みたいなこと言ってんだか」
「スーツ姿、いいな。まだスーツに着られてる≠チて感じだけどな〜そこが可愛いぜっ」
 抱き締めて頬を寄せられる。軽く触れるだけの昂のキスは、朝から剃っていない伸びかけの髭がちくちくとあたって、煙草の匂いがした。拓海はそのどっちも本当はすごく好きなのだが、それを口に出したことはない。――多分、言葉にしなくても昂はわかっているのだろうけれど。
「――ってこんなことしてる場合じゃないっ! こんな最初から遅刻したらオレの印象最悪だっっ! 昂、そういうわけでオレ今日メシいらねーから!」
 昂の腕の中から抜け出してばたばたと玄関に向かう拓海を、相変わらず愉しそうに見送る昂だった。
「はいよ、行って来い。続きは帰ってきてからな〜」
「……」
「冗談だって。そうだ――拓海、明日就職祝い買ってやるよ。何がいい?」
「ブルガリのプロフェッショナルGMT」
「高く出たじゃねえか……」
「冗談だって。いいよそんなの、気持ちだけで。じゃ、行ってくるっ」
 拓海は悪戯っぽい笑顔を残して扉の向こうに消えた。拓海の面影がそこに残っているかのように、昂はしばらく壁に凭れて玄関の扉を見つめていた。
 地元に帰らずに東京で就職することで、拓海が親とかなり激しくやりあった事を昂は知っていた。拓海はそれについて何一つ昂に言わなかったから、昂も敢えて聞かなかったが。
 それが百パーセント昂のためであるはずは無い。だが、少なくとも理由の何割かは、間違いなく自分の所為だろう――――。
「ブルガリのプロフェッショナルGMT、か」
 この愛おしさに値段をつけることを考えたら、全く安過ぎる買い物じゃないかと、昂は微笑んで眼を閉じた。
 
 
「……え? なんだそれ、本当か!?」
「うん。この春から、営業以外はカジュアルでいいってことになったんだ。だからスーツ着なくていいって、あー楽っ」
 笑顔の拓海とは対照的に、昂はショックを隠しきれない表情で叫んだ。
「そんなっひでー! スーツ着たお前とデートすんの楽しみにしてたのにっ…それじゃ拓海、デートの時に着ろよ、な?」
「えー、やだよ。窮屈だし気使うし」
「そんなこと言ってお前、オレが折角就職祝いに買ってやったディオールのスーツ、いつ着るんだよ!? 時計よりもスーツの方が持ってないから欲しいって言うから奮発したのにっ…」
「着るよ。ほら、通夜とか葬式とか法事とかの時にさ」
「って喪服かよ!! このやろー、次のデートには絶対あれ着させるからな!!」
「……ていうか、お前はスーツを着せたいんじゃなくて、スーツを脱がせたいんだろ…」
「その通りだ!」
「……やっぱ着ない」
「拓海〜っっ!」
 
 さて、拓海が次のデートの時に昂のプレゼントのスーツを着るかどうか――――。
 その答えは神のみぞ知るのだが、しかしどちらにせよ昂と拓海は、これまでもこれからも春爛漫の桜のごとく、らぶらぶなカップルなのであった。