浩哉(ひろや)は、ものを捨てられない性分だ。特に親にそう厳しく躾けられたという記憶もないから、それは持って生まれた性分なのだろう。
 三月の末のまだ肌寒い昼下がり。マンションのエントランスからの呼び出しチャイムが鳴ったその時、浩哉はちょうどその己の性分と向き合っている最中だった。
(……? 誰だ?)
 浩哉のマンションは鍵を持っていないと、正面エントランスで目的の部屋への呼び出しをかけてドアを開けてもらわなければならないタイプだ。宅急便かと思ったが、何かを買った覚えはない。今日は『約束』も入っていないはずだが――。
 いぶかしみながらインターホンを見に行くと、小さなモニタに見知らぬ青少年が映っていた。年の頃は十代後半だろうか。宅急便のバイトにも、新聞の勧誘にも見えない。応答したものかどうか考えあぐねていると、モニタの中の青年が顔を近づけて口を開いた。その顔を見て、誰か自分の知っている人間に似ているような気がした。誰か――、身近で遠い人物……。
「浩哉さん、――オレ、結城光です。覚えてませんか?」
 ゆうき、ひかる。その名には聞き覚えがあった。
 そして一瞬の後に記憶の糸が繋がった時、浩哉は「ええっ!?」と素っ頓狂な驚きの声を上げていた。インタホンを通して聞こえた浩哉の声に、青年の顔が綻んだ。
「そう、オレです――久し振りです、叔父さん」
 
 
「こっちの大学に受かったのはいいんだけど、後期でぎりぎりだったもんで、住むところが決まってなくて――あ、すげー旨い、このコーヒー」
 出されたコーヒーを一口飲んで、光は素直な感嘆の声を上げた。浩哉は食い道楽なので、コーヒーも豆からこだわる。
「――で、オレの部屋に押しかけ居候しろって、麻里絵さんは言ったのか?」
「部屋が決まるまでのほんのちょっとの間だけ」
「それにしたって、普通は一言何か連絡を寄越してから来るのが礼儀ってもんじゃないのか?」
 溜息が出た。十も歳の離れた姉の自己中心的な性格は一応知っているつもりだったが、もう二十年近く顔を合わせていない弟のところに、こんな唐突に自分の息子を寄越すなんて――。
「――勝手なことして、すいません」
「あ、いや――麻里絵さんに言ったんだよ。光くんには何も悪いことはないから……」
「でも、叔父さん、迷惑なんでしょう?」
「迷惑というか、……まあ、そうじゃないって言えば嘘になるけれど、……困ったな」
 本音を言えば、大迷惑である。部屋を決めるまでの数日間と言うが、浩哉にしてみれば一日も泊めたくはない。泊める訳には行かない。その理由は光にではなく、浩哉の方にあるのだが。
 それにしても――でかくなったなあ。浩哉はつくづくとたった一人の甥っ子を眺めた。
 浩哉の記憶の中の光は、生まれたばかりの赤ん坊の姿で留まっていた。光が生まれたのは浩哉が十四の中学三年の時。その後、高校から家を出て自然と姉とも疎遠になって、なんだかんだで生まれた時以来、一度も光に会っていなかったのだ。それがいきなり大学生になって眼の前に現れても、なんだかまだ実感が沸かない。
「十八年も経ったんだな……来月から、大学生か」
 これが、歳をとったって感慨かな――浩哉は苦笑し、光のカップにコーヒーのお代わりを淹れた。光は、そんな浩哉の動作をじっと見詰めていた。表情にはまださきほどのしおらしさが残っていたが、指でテーブルを引っ掻く仕草はどこかふてぶてしさを感じさせた。
「大学合格、おめでとう」
「ありがとうございます」
「すごいな、医学部なんて――さすが、義兄さんの息子だけあって優秀だ」
「いや、裏金積んでるから」
「え?」
「――なんて、冗談です」
 一瞬固まったが、光の笑顔にほっと息を吐く。
「ちゃんと受験して入りましたよ。親父は医学部以外は行かせないって言うんだから、しょうがないんで」
「それは、病院を継いで欲しいからだろう。一人息子なんだし。でもそれで実際に合格するんだから、やっぱりすごいことだよ」
 光の父――姉の夫、義理の兄にあたる人物は開業医だった。幼い頃から『いつか自分は医者か弁護士と結婚する』と豪語していた姉の有言実行振りには、弟ながらひどく感心したものだ。それが出来たのも、並みより上の見てくれのお陰かもしれない。そして光は、母親の美貌を受け継いでいた。だが、光の優しげな佇まいは母親には全くないものだ。
「光くん――」
「光でいいですよ」
「せっかく来てくれたのは嬉しいけど、ここに泊めるのは無理なんだ。だから、今からホテルへ案内するよ」
「でもオレ、――」
「お金はいいよ、オレが出すから――入学祝い代わりだ。まあ、シティホテルはちょっと無理だからビジネスホテルだけど」
 光は部屋の中をぐるりと見回しながら訊ねた。
「誰か、一緒に暮らしている人がいるんですか?」
「――それは、答えられないな」
「……。クーラシェイカー、聴くんですか」
 光の視線の先には、キャビネットの上に据えられたCDコンポの脇に並べられているCDがあった。浩哉もつられてそちらに眼を遣る。
「ああ、光くんも好き?」
「うん。このアルバム、持ってない――かけていいですか」
「いや、それが、今そのCDコンポ壊れてるんだ――買い直そうか、修理に出そうか考え中で」
 それが、光が来る直前に浩哉を悩ませていた問題だった。
「でもこれ、だいぶ古いんじゃないですか? MD聴けないみたいだし、カセットデッキがついてるし」
「そうなんだけどね……パソコンでCDに曲焼けるようになったから、特にMDの必要も感じないし、SDカードとかも要らないし」
「修理に出すより、新しい奴買った方が安いんじゃ?」
「そうだけど、長い間使ってきて愛着があるから」
 調子が悪かったのを騙し騙し使ってきて、とうとううんともすんとも動かなくなったのは昨夜だ。今朝メーカーに問い合わせたら、やはり同じ答えが返ってきた。
『直せないことはありませんが、部品の在庫もない可能性がありますし、送料や修理費を考えたら、新しいものを買うことをお勧めしますが――』
 ――もっともな回答だろう。十五年も使ったのだから、寿命といえばその通りだ。よくこれだけ長い間もったものだとも思う。
 だがそれでも、浩哉はすすんで新しいものに買い換える気にならなかった。持って生まれた性分もあるが、それよりも――。


『――いい音楽を聴くことは、いい本を読むことと同じだって、誰かが言ってたけど』
 遠い夏の夕暮れ。部屋を染める朱色。紫煙の向こうの表情。
『死ぬまでにあとどれくらい、新しい曲を聴けるのかな』
『たくさん聴けるよ――あなた、なかなか死にそうにないもの。ねえ? 浩哉くん』
 穏やかな笑い声。鈍く光を反射するCDを、コンポのトレイに置く手。スピーカから流れ出す、流れ出すアジア色の強いロック。
 忘れてはいない。まだ覚えている。
 全ては、過ぎ去った遠い昔のことだ。感傷というほどの気持ちはないけれど――。


「――高くついても、やっぱり修理にだすよ」
 言ってから光を見ると、互いの視線が合った。光は浩哉から眼を逸らさないまま、何気ない口調で「オレが直しましょうか?」と呟いた。
「え? 直せるの、これを?」
「オレ、本当は工学部に行きたかったんですよね。子供の頃から機械いじりが好きで――」
 だが、親の意向で医学部に行かされたということか。それ以上は言わずにCDコンポを眺めている光の横顔はどこか拗ねているようにも見えた。
「ね、直させて下さいよ、叔父さん。オレ、こういうの得意なんで」
 浩哉の返事を聞く前に、光は席を立ってコンポに近づいていった。何だか、玩具を与えられた子供のように楽しそうだ。浩哉は光の背中を見て、まあいいかと苦笑した。直せなかったら改めて修理に出せばいいのだ。それに、初対面の叔父のために家電の修理を申し出た、たった一人の甥の好意を無下に断るのも気が引けた。
「ドライバー、ある?」
 浩哉は、光の言葉に工具を取りに玄関へ向かった。
 
 
「……無理そうなら、もういいよ? 光くん」
「いや、本当にあとちょっとなんですよ――おかしいなあ、配線は間違っていないはずなんだけど……んー」
 日はとっくに暮れて、もう七時近くになっていた。この会話ももう何度目だろうか。浩哉はテーブルに顎肘をついて、深い後悔の溜息を吐いた。
『もういいよ』『あとちょっと』を繰り返すこと数時間。いい加減腹も減ってきた。駄目なら駄目でいいから早く切り上げて、食事にでも連れて行って、それからホテルに送り届けようと思っていたのに。光に『あとちょっと』と言われる度、もう少しやらせてやるかと思い留まり、そしてこの時間だ。親心ならぬ叔父心が禍いしたというべきか――。
「もう腹も減ったし、諦めて食事に行こう。とっておきの美味い店に連れて行ってあげるからさ。何なら、また明日来て続きをやるのでもいいし――」
「いや、コレ直さないで食事になんか行けませんよ。ここまでやったんだから――本当に、あとちょっとだし。食べに行く時間勿体無いし」
「でもなあ、何か作ろうにも、今、オレんち食材殆ど何も無いんだ――出前のピザもつまんないだろ」
「オレは別にカップ麺でも何でもいいですよ」
 光は浩哉の方を見ないまま答えた。そうは言っても本当にそんなものを食べさせる訳にも行かないし、第一、浩哉が食べたくない。光はフローリングに店を広げて、一心に修理に取り組んでいる。粘り強い性格なのだろう。どうやら、コンポを直すまではテコでも動かなさそうだ。
 仕方ない――。浩哉は財布を手に取ると、光の背に声をかけた。
「光くん、それじゃ、オレは買い物に行って来るよ。何か買って来て、それでメシ作るから。それでもいい?」
 一番近くのスーパーは八時まで開いているから、まだ十分間に合う。問題なのは光を一人で置いていくことだが、この調子なら浩哉が帰って来るまでここを動くことはないだろう。万が一にも、あの部屋に入ることなどないはずだ。それにあの部屋には鍵がかけてある。例え鍵のかけてある部屋の存在を知られたとしても、その部屋の中を見られることはないのだ。
 浩哉の心など知らぬ光は、無邪気に振り向いて答えた。
「勿論。――リクエストしていいなら、オレ、ビーフシチューが食べたいですっ」

 ビーフシチューのための食材を買い揃えて、浩哉がマンションに戻ってきたのはそれから三十分後だった。部屋の扉を開けた瞬間、耳に聞き覚えのある音曲が流れ込んできた。そして何故か同時に、いいようのない不穏な空気を、胸騒ぎを覚えた。
 何故そんな気持ちになったのか、咄嗟にはわからなかった。音楽はリビングから聞こえてくる――きっと、CDコンポが直ったのだ。玄関からリビングに続く廊下。その途中にあるいくつかの扉。
 その扉の一つが、開いている。中から明りが漏れている。
 鍵をかけておいた筈なのに――――。
 呆然とした足取りで、浩哉はその扉に近づいた。扉の鍵がばらばらに壊されて、床に落ちているのに気付いた。床から眼を上げると、部屋の内部が視界に入った。
 浩哉にとっては馴染みの部屋――何もかも、見慣れたもの。だが、その中央に、たった一つ異質なものが佇んでいた。
 それが振り向いて、浩哉に笑いかけた。先ほどまでの表情には微塵も見えなかった、昏く陰湿な感情を口角に浮かべて。その表情が、浩哉を凍りつかせた。
「お帰りなさい――叔父さん」
 光の手にはドライバーが握られていた。それで鍵を壊したのだと分かった。そして、背中を伝う冷たい汗と共に浩哉は悟った。
 初めから、光はこの機会を狙っていたのだ。浩哉が光をここに泊めない理由を探る機会を。CDコンポを直すと言い出したのも、何もかもがそのための光の策略だったのだ。でなければ、わざわざ鍵を壊してまでこの部屋に入ったりはしない。
「CD、やっと直りましたよ――修理代、浮いてよかったですね。少しは感謝して下さいよ?」
 嘘だ。本当はとっくの昔に直っていたんじゃないのか。直せない振りをしていたんだろう――。その言葉は、光の笑顔に圧倒されて飲み込まれた。
 眼の前にいる十八歳の甥は、相変わらず優しい雰囲気を纏っていた。だがその優しさは決して、無垢なものではない。
 無邪気な言葉も、あどけない笑顔も、何もかもがきっと――――。
 言葉も無く立ち尽くしている浩哉から視線を外して、光はまた部屋の中を眺めた。
「それにしても、何があるのかと思っていたら――叔父さんがこういう趣味の持ち主だとはね」
 その部屋は、浩哉の仕事部屋だった。部屋の中には、仕事に使う道具がいくつも置いてある。
 鞭に拘束具。医療器具。快楽を得るためのディルドのようなものまで――さまざまな、SM用具が。
「……。趣味じゃない……仕事だ」
 それだけ言うのが精一杯だった。光は、さほど驚きもせずに「へえ」と呟いて、浩哉のもとへ歩み寄った。
「どちらにせよ、親や親戚には言えない秘密、てことですよね? 道理で、ここに泊めたがらなかった訳だ――」
 馴れ馴れしく浩哉の肩に腕を回し、眼を覗き込む。光の方が浩哉よりも僅かに背が高かった。浩哉が顔を背けると、すぐに手を離した。
「まあ、詳しい話はメシ喰いながらでも話して下さい――ビーフシチュー、作ってくれるんですよね? もう腹減って腹減って。あ、ちゃんとオレも手伝いますから」
 そう言うと、玄関に置き去りの買い物袋を拾い上げて、光はさっさとリビングへ戻って行った。
 浩哉はまだそこから動けなかった。リビングからの音楽が一度止み、すぐに浩哉のお気に入りのアルバムの曲が流れてきた。
 聴きながら、浩哉は何かが取り返しのつかない方向に、どうしようもなく悪い方向に向かい始めたことを知った。
 
 
 そうして、この日から、浩哉と光の歪な関係が始まった。