「たか、し……」
「拓海――」
 何で、と問う代わりに、拓海は呆然と昂を見た。コート姿にゼロハリバートンと小さな紙袋を手にして――今しも帰宅した若手リーマンにしか見えないし、実際そうなのだが。
「……」
「ただいま――拓海……」
 上から下へ昂を眺めて、革靴に眼を留めた。埃がついて汚れている。洒落者の昂は靴にだって気を遣っていたのに――。コートに隠れて見えないが、きっとスーツも皺が寄っているんだろう。
「……なんで……」
 三週間振りに逢う彼氏の顔をまじまじと見て、知らず呟いていた。
「だから、大阪を出る時に電話したんだろ、そうしたらお前がろくに話も聞かずに呑んでる最中だからとか言って切って――」
「そうじゃない! なんで――なんでお前、三週間でこんなにやつれてんだよぉ…」
 泣き言みたいにそう言うと、拓海は昂の胸に倒れ掛かるように顔を埋めた。冷え切ったコート越しに昂の躯に触れた瞬間、言葉に出来ない切なさが込み上げて来て、涙が出そうになる。先刻まで胸を塞いでいた惨めさと相まって、拓海の思考回路は何だかもうぐちゃぐちゃになっていた。
「――拓海…」
 荷物を床に落とすように置くと、昂は拓海をかき抱いた。しがみ付く様に昂の背中に手を回す拓海と、二人はしばらく声もなく玄関で抱き合っていた――――が。
「…………」
「拓海」
「昂、疲れてるんだろ…? 取りあえず、今日はもう休めよ、な?」
「オレも、どろどろに疲れてるしもう今日は絶対に無理だと思ってたんだけど」
「……」
 前に当たる硬い感触に、なんだかやばげな気配を察して体を引き剥がそうとしたが、タッチの差で先手を打たれて――拓海は壁に縫い付けられてしまった。そのまま、噛み付くように唇を奪われる。飢餓感に溢れたキスはかつてないほど乱暴で、歯がかちかちと噛みあった――。
「……んっ…や、やめ――昂!」
「止められるかよ、三週間振りだぞ!」
「ってお前、もしかして体で誤魔化そうとしてるんじゃねえのか!?」
「コレが誤魔化そうとしているように見えるかっ!? お前だって――溜まってんだろ? ……まさか」
「……なに」
「まさか――この三週間の間に他の男と――――」
「言うと思ったけど――お前と一緒にすんじゃねえっっ!!!」
「何言ってんだよ、浮気なんかしてるわけないだろーがっ!! 大体このやつれっぷりを見ろ、毎日毎日仕事場とマンションの往復で、労働基準法を無視しまくった徹夜残業三昧で、一体いつ浮気する暇があるってんだ! もしそれで出来たらオレは自分に感動するよ!!」
「お前なら十五分ありゃ梅田駅の便所で出来るんじゃねえか? 前の浮気だって、一体いつの間にって、知ったときオレは腹立つを通り越してむしろ感心したからなあ…」
「見てきたように言うなあっ!! そりゃ、まあ――前の浮気は、それは……悪かったよ……謝るから…。でも――それはその、なんていうか――お前も男なら分かるだろ?」
「……分かるけど、でもだからこそ、そこを抑えてくれたらオレは惚れ直したね」
「それじゃあ今、オレに惚れ直せよ! 浮気なんてしてないし、お前に会いたくて最終の新幹線で帰ってきたって言うのに――――あああもう、こんな言い争いしてる時間も勿体ねぇ!! 明日の夜にはまた大阪行かなきゃいけないんだよ、それなのになんでこんなことになってんだよっ!!」
「……なんでだろ」
 本当になんでなんだろう。昂に会いたくて触れたくて、繋がりたくて堪らなかった。今、こうして目の前にいて抱き締められて、キスされたそれだけで、もう何もかもどうでもよくなって、ただ飽きるほど昂を感じたいと願う自分も確かに居るのに――――。
「……。……明日の夜、って土曜なのに…また出勤?」
「……予定が押してるから。月曜に客先との折衝があるから、日曜の朝から主任と打ち合わせ。……思い出したくないから聞くな」
 昂は拓海の肩に顔を埋めて、搾り出すように呟いた。たった一日の休日ならば、東京に帰ってくるよりも、大阪のマンスリーマンションで過ごした方が余程ゆっくり休めるだろうに――往復の時間だけで半日潰れてしまうのだから。
「会いたかったんだよ」
 拓海の心を見透かしたように、昂が言葉を継いだ。耳の側で呟かれたその言葉は、砂に注がれた水のように、素直に拓海の心に染み入った。
 会いたかった。嗅ぎたかった。側にいて、欲しかった。
 あの時――――。
 熱に侵されて寝返りを打つのすら苦しかった、あの時。眼を開いたその時に、一瞬でもいい、映る景色の中にお前の姿があったなら。
 崎田じゃ駄目なんだ。側にいてくれれば誰でもいいっていうんじゃない。オレは、一番辛い時に、お前に居て欲しかった――――。
「……側にいること、ていうのも、貯めておければいいのにな」
 それは自分の我儘なのだと、わかっている。昂は、今、こうして、あの時の埋め合わせをしようとしてくれている。
 嬉しい。その気持ちは、ものすごく嬉しい。なんだか涙が出そうなのは、きっと――そのせいだ。
「そうしたら、そうしたらさ、三週間分貯めといて、毎日少しずつ出して、毎日側にいてもらって――そうすれば、寂しくないのにな」
「拓海」
「……確かに、時間が勿体無いよな。明日の夜までしかないんだ。三週間分、吐き出そうぜ――」
 そう言って、拓海は跪くと、昂の前を開け――その強張りを口に含めた。
 もう何も、考えたくなかった。